縁起
明治維新の神仏分離までは、八幡山普門院と称し、東叡山の末寺であったが、江戸八所八幡の一つに数えられ、八八幡詣(ややはたもうで)として多くの参詣を受けた。
昭和15年、皇紀2600年を記念して、境内を整備し、玉垣・神楽殿・御輿庫が新築された。祭礼には門ごとに軒提灯を下げ、牛車にのせた御輿が氏子中を練り歩いた。市兵衛町(六本木一丁目あたり)の偏奇館主人荷風散人(永井荷風)は、その日記に「西ノ久保八幡宮祭礼にて近巷賑かなり」「飯倉八幡宮の祭礼にて馬鹿囃子の音夜ふけまで聞こゆ」など記す。
昭和20年3月、戦災により、社殿はじめ御輿庫、社務所を焼失、5月神楽殿も焼夷弾の直撃を受けた。終戦当日は、焼野原に建つトタン葺の仮社殿で大祭式を終え、数名の参列者とともに、玉音に接するありさまであった。氏子の町々の復興とともに昭和28年8月社殿を総桧木により復興、同29年町内御輿庫再建、同時に手水舎を時の氏子総代山田信治郎氏奉納、同37年末社稲荷社・人麻呂社を復興。同40年国道一号線拡幅工事に伴い、鳥居・石灯籠および熊谷橋の移築。同51年8月社務所を木造瓦葺で新築した。
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